naotsune’s blog

横浜のとあるおじさんの日記

AIにはできない。生身の人間にしか創造できないもの。

ひさびさにメモっとこうと思ったら、前回書いたときもジョナサンの芹が谷店だったようだ。この店にくるのはまだ2回目だし、毎週末ごとに違うファミレスに行ってるのに。この店は考えが浮かびやすい環境なのかもしれない。霊的スポットである可能性すらある。

 

というほど大したことを思いついたわけではないが、AIがすべてやってくれそうな雰囲気になってきたが、さてわたしは何をすればいいか。

たぶん自動運転もAIで飛躍的に進歩する。結局人間の視覚とそれに対応した運転行動を学習データとして構築していけばよいだけなのだ。

 

結局AIは人間がやってきたことを代替するだけである。AIは賢い人間でしかない。いや現時点では、である。

では改めて私は何をすればいいか。
わたしは新たな価値を創造したい。と、50代になってもなお願い続けている。

いったい何を創造できるだろうか?もうそれは知的活動が色々ある中でも、もう精神世界の新たな妄想を作り上げることしかない。こればっかりはAIもできない。いや、できるようになるかもしれないが、少なくとも人間と対等なのではないか?対等程度であろうという根拠は、精神的妄想の価値を評価するのは生身の人間だからだ。

わたしは日々考えていること、人間関係で悩んでいること、自分の小ささを思い知ること、落ち込むこと、これらは既に確立されている心理学や精神医学の類で少しは説明できるのかもしれないが、私のこのどうしようもない渦巻いた感情は絶対にだれにも理解できない。じゃないかな、と思う。

 

精神的妄想、これを後世に残すように、プログラミングしたい。アイデア爆発のソフトウェア。
すなわち形にしたいのだ。プログラムはAIに書いてもらうだろうけど。

 

以上、ジョナサン横浜芹が谷店似て午前10時20分。

徒然に思うこと

 徒然にの使い方が日本語として正しいのが気になるところではあるが、細かいことを気にしていては筆が進まないことは分かっているのでまずは気にしない。しかし、私は恥をかくことを怖れる小心者なので、後で調べることとしよう。そして案の定おかしかったら修正しよう。

 

 久々に日記を書いてみようと思い立った。日記というものは第三者が読むことを考えてしまうとカッコつけたり本心を隠したりして、日記として意味をなさないことが多々あるものだと思う。そういう意味で言うとインターネットに公開するようなブログサービスを使うのはどうかと思うのだが、何しろ個人管理のデータはなくしてしまうのだ。今時のGoogleアカウントに紐づけておけば無くすこともないのだが。自分でも読み返すことを考えるとやはりインターネットにおいておくのがベスト。もし誰かが読んでくれて共感してくれるようなことがあればちょっと嬉しいと言うのももちろんあるのだし。

 

 歳をとってしまい、生きた証を何を残せるかという、おそらく多くの人が考え出すことを強く考えるようになった。もしかしたら死期が近いことを体が本能的に悟っているのかもしれないが、年齢を考えると余生は長くはない。そして生きた証として、できるだけ月日と共に朽ちないもの。何が朽ちるのかというと、最も朽ちるのがデジタル生成物だ。私はソフトウェア産業に身を置いている。趣味で作ったアプリケーション、仕事で作ってきたアプリケーション、それらは全て陳腐化し何も残らないと思う。人の心に残る可能性は少しあるかもしれないが。特にAIが急に賢くなってなんでも作り出すようになってからは生身の人間として残せるものを残したいと強く感じるようになってきた。

 

 そこでだ。考えついたのが小説を書くと言うこと。小説を書くと言うのは文章力を要するので普段から文章を構成する習慣がないとなかなか上手く書けないはずだ。証を残すと言う意味のみにおいては小説でなくても物語や脚本でもなんでもいいのだ。何しろ生み出したものを少しでいいから、インターネットの片隅にでもいいから残して死にたい。もちろんすぐに死にたくはないが、死んだ後、家族の心以外のどこかに残っていれば、とちょっとだけ思っているのだ。しかし、拙い形式のプロットだと残りにくいんじゃないだろうかと思い、小説の体をなしているのがベターではないかと思った。私はカッコ付けで見栄っ張りなので形にこだわる。

 

 ここで問題がある。小説を書こうと言うほど私はこれまで小説を読んでこなかった。本を読むことはあまり好きではなかった。時々は読んではきたが、めんどくさいのだ。集中力も続かない。パソコンやスマホを見る方が当然楽だ。面白い小説自体は大好きなのだが。小説書くためにもこれから厳選した小説を読もうかなとも考えるのだが、大きな問題が老眼である。もう致命的なのだ。この文章は強度の高い老眼鏡をかけて集中すればあっという間にこれくらいの文字数の文章は書けてしまう。文章を書くのは確かに楽しいと思う。

 

以上、ジョナサン横浜芹が谷店似て午前10時半〜45分。

忘れたくなんてない

「忘れたくなんてなかった」

私が愛してやまない映画「八日目の蝉」のクライマックスシーンで主人公の井上真央が叫ぶセリフだ。豊かな自然と愛情にあふれた田舎の人々との記憶を、実の母親から厳しく封印されてしまっていたのを思い出し、その悲しみを解き放った瞬間だ。とても衝撃的で悲しいシーン。実の母親からすれば、誘拐されていた間の娘の思い出を、多感な三つの子の大事な経験として認めてあげることなど到底できないのも無理はない。関西弁を駆使する娘に発狂して烈火のごとく𠮟りつけてしまう母と、号泣しながら謝罪し記憶を封印することを選択せざるを得なかった、たった四歳の娘。よくこんな映画を作ったものだ。

 

「忘れてくれるな」

さだまさしのヒット曲。

 

「忘れるということ」

いろいろなことが思い出せない。初老の特徴でもある。忘れてしまえば幸せなのだという誰かの言葉は間違いない。忘れることさえ可能なのであれば、死ぬことだって怖くないのだ。死んだら忘れるのだ。死の瞬間の恐怖だけではなく、大切な思い出や学んできたことや忘れたくないこともすべて。

気が乗らないと言うことはすなわちやりたくないということ

 土曜日のファミレスのモーニング。私にとって唯一の心安らぐ時間だ。今日もコーヒーを飲みながら、ノートPCを開いてアプリ開発の続きでもやろうとするが、結局YouTube見たり映画見たり。相変わらずヤフオク見ながら物欲を踊らせるのは楽しい。要らないものをうっぱらう作業はめんどくさく進まない。

 気が乗らないと言うことはすなわちやりたくないことなのだと。至極当たり前のこのことに気づく。気づくというか再認識しただけだ。今この文章を書くのも少し面倒くさくなってきた。流されて生きていけばいいのかな。

昨日の練習

夜、45分の短いメニュー。

覚えているだけメモ

Up 50x6 1.00

Kick 75x4 1.30 板あり ←大きくサークルアウト×

Pull 75x4 1:10 hypo5

swim 50x1 2:00 EASY

swim 75x4 1:15

swim 50x4 0:45

swim 100x2 1:45

AllOut 100x1 2:00 IM

down 100x1

total 2050

 

トータル時間が短いのでセーブすることなく出し切れたとは思う。

50mの45秒サークルが最後間に合わず息が上がり、次の100mまで30秒休ませてもらうという体たらく。

最後のIMは1.40かかった。FlyとFreeが20秒ずつで、バックとブレでそれぞれ30秒かかってる感じだろうか。これを25秒ずつにすれば1.30でいけるはずなのだが、そう簡単ではなく。

仕事がおもしくろないことに気づいて色々考えたこと

 これまで好き勝手やってこれたプログラマーだったのだが、管理職になってからどんどん仕事は面白く無くなってきた。あるあるの話なのだろうが、特に会社に親会社のやり方を持ち込んで介入してきたというのも、タイミング的に大きかった。管理職に登用されたのも親会社の意向も大きいし、給料は大きく上がったので文句を言うべきではないのも分かっている。だが仕事そのものが辛くやる気が起きない。これまでが恵まれすぎたのであろう。また何年振りかに転職を考えるようになった。

 転職を考えていた頃、もう何年か以上も前だがその時はその時で、不当に評価されない不満だったり上司が気に食わなかったりと言うのが動機だったのを思い出す。結局そう簡単に行くこともなく諦めて漫然として過ごすうちに年を取り部長になってしまい、こうなったら会社のため若い社員のためと骨を埋めるべきかと思いながら過ごしてきた。働いてきたと言うより過ごしてきたという方が自分の感情に近い。

 正直会社の事業に将来性は乏しく、自分の仕事はさらに競争力のない製品をメンテナンスし続けることに過ぎないことに気づいている。ここにやりがいがないことも私のやる気が起きないことに大きく影響しているのだろう。若い社員はそんなことは気にせずただ自分の技術を磨くか、安定して楽して給料をもらえることが重要として過ごしている。贅沢さえ言わなければ既存の資産を売り続けるだけで定年まで社畜として給料をもらい続けることは可能だ。

 新型コロナをきっかけに導入されたほぼ100%のリモートワーク。はっきり言ってこれは素晴らしい出来事だった。往復何時間もかけていた電車通勤がどれほど自分の時間を奪い、家族との時間を奪っていたかを知った。転職ができたとしてこの大きなメリットが維持できる環境に移動できるかは甚だ疑問だ。その恵まれた環境でもなお仕事用のパソコンにログインするのが苦痛なのだ。

 色々考えるのだが、フリーのプログラマーになったところで、自分で開発したスマホアプリが大ヒットして個人事業として成り立ったところで、収益化するためには面白くない作業が待っていることにも思い至る。それであれば黙々と心を殺して毎日を過ごせば毎月給料が振り込まれるこの環境がベストであることも再認識できる。ただただ、やはり辛いのだ。

 

 あまりに心に軋みが生じている気がして、今日は久々に出勤時間をずらした。11時出勤にするつもりだ。出勤と言ってもパソコンにログインしてリモートワーク開始宣言メールを打つだけだ。勝手に開始時間を気分で変えられるのもとても恵まれた環境だ。今は久々にココスのモーニングに来店した。平日なので客も少なく広いテーブルで一人でぼーっとした。何か始めなければと何年も前に開発をやめたAndroidアプリをいじり始めようとノートPCを最近新調して持ってきたのだがパソコンを開こうとするも気が重い。結局何にもしたくないのだ。

 だが、この堂々巡りの思考をメモしとくのも良いな、そうだ久々にブログにでも書いておこう、と思ったらすぐにノートパソコンを開くことができた。何年振りかにはてなにログインし、1年以上前に書いた随筆ブログを読み、なかなか悪くないなと感心した。そして今日のネタを嬉々として文章を書いた。文章はあまり上手ではないが、書くことが好きなのだなと気づく。文章を書くことではなく、考えを形にすることが好きなのだろうな。だけど本を読むのは苦手だ。文章が稚拙なのはここに原因があるのだろうとも自覚する。

 文章でもなんでも構わない、クリエイティブな仕事がしたい。ここに行き着いた。一体何歳でそんなこと言ってるのだか、とも思うが一生思想家でいたいとも改めて思った。

 

 

恐ろしい夢

 恐ろしい夢を見た。まだ小さかった頃の次男、首と胴体が離れている。まだロンパースを着ている胴体をずっとクルマの中に置きっぱなしにしていて、早く取ってきて首とくっつけなきゃと思っているうちに、首のほうの断面に皮が出来てしまった。

 首の方はちゃんと生きていて、首から上だけで生活している。どうやら別の胴体のようなものが生えていたような気もする。

 ずっと置きっぱなしで忘れていた胴体を取ってきて次男に渡す。次男は、あ、これどこにあったの?と尋ねる。首の断面にできた皮を取りのぞいて胴体とくっつければ神経がつながるのでは?と思ったが、わたしはまた面倒くさがって後回しにしてしまう。

 しばらくして戻って次男の様子を見るとすでに胴体は首とくっついていて、次男は立ち上がる練習をしている。リハビリのような感じだ。首の境目を切って皮を剥いでもう一度胴体に付け直せば、もっと神経は繋がりやすくなるだろうと思うのだが、思い直して首切るのはさすがに危ないのではと思い様子を見る。

 くっついた胴体に生えた足はロンパースの頃の可愛らしい足ではなく、年齢相応に長い足にまで延びていたが、骸骨のような骨ばった長い足で、生まれたての子牛のようにふらふらで立ち上がる練習をしている。首のくっついた境目は段になって内側に皮がある。なぜ神経が繋がったのか不思議だ。

 オレンジ色と白色の、横ボーダー柄の可愛いロンパース。私は首の境目をなおしてあげようかというが、次男は私の怠惰に怒ることもせず、これで大丈夫だよと言う。前向きにこれでいいよと言うのだ。私の怠惰せいでそんな体になったにも関わらずだ。

 立ち上がった次男の背中側にまわり、背中や腕や足を触りながら、神経のつながり具合を確認するために触られてる感覚があるか確かめながら尋ねる。
次男は、触られてる感覚が無いようで反応が鈍い、腕は触られていることがわかってうなずいていたが、背中や足はよくわからない風だった。

 夢はここまで。

 夢の中での感情を思い出すと、大事なことを後回しにし、めんどくさいことは気が乗らず後回しにして、でも気にはなっている感じ。

 息子の大事な成長期の体なのに何ヶ月もほったらかしにしてしまい自分の怠慢を優先してしまっている、その結果、次男は、不完全なまま成長してしまったのだという感覚。

 そのうちに皮が出来てしまった、しかも新しい手足まで。でも忘れていた体を渡すと次男は、怒らずに無邪気にこれどこにあったのと喜ぶ。しかもすぐに体とくっつき、親の力を越えた自立した能力を見せる。

 くっつきかけた首をもう一度切ってくっつけ直そうとするとき、何でも自己流で修理をしようとして大体上手く行かずに失敗するときの情けない感情が起こるのをかんじる。そして、さすがに今回は息子の命に関わることにおののいて諦める。

以上